こんにちはつよぽんです
私の好きな食べ物のウナギに関する記事が有りました。
2019年の土用の丑の
1月28日、4月22日、5月4日、7月27日、10月31日だそうです。
土用の丑 (うし) の日にウナギ(鰻)を食ベるのは、江戸の博物学者 ・ 平賀源内が、売れない蒲 (かば) 焼き屋のために丑の日には鰻が良いとの看板を書いてあげたからだ、というのが通説である。
三千キロ旅する
世界には18種類のウナギがいるが、二ホンウナギ、ヨーロッパウナギ、 アメリカウナギが代表種である。
近年、 ウナギの産卵場が日本から三千キロも遠く離れたグアム島付近にあることが分かってきた。
そこで生まれた子どもたちは黒潮に乗って日本近海に運ばれシラスウナギとなり川を上る。
その後、5年から10年の間、川や沼で生活した後、産卵のため再び海に下り生まれ故郷ヘと旅立つのである。
ウナギは万葉集では 「武奈伎 (ムナキ)」と書かれていた。
名前の由来には諸説あるが胸鱚 (むなびれ)の前腹部が黄色なので「胸黄 (むなき)」 からきたとされる。
万葉集には 「石麻呂に吾もの申す、夏やせによしと云うものぞ、 むなぎ取りめせ」 夏やせに良いからウナギをとって食ベなさい) との大伴家持の歌が載っている。
ウナギは昔から 「精のつくもの」として評価が高く、「うなぎつなぎ」模様の布のふんどしをすると精力減退の人も元気になるとの滑稽話 (「小紋雅話」 山東京伝1790) も残されている。
>うなぎつなぎ模様が元気にするとは初めて聞きました。
ウナギといえば蒲焼きだが、 歴史の上で初めて登場したのは、 京都吉田神社の神宮家の記録 「鈴鹿家記」(1399) だ。
その当時の蒲焼きはぶつ切りのウナギを串に刺して焼き、味付けは味噌(みそ)か酢であった。
>ぶつ切りだったのですね。
ウナギを裂いて開き、濃厚なタレを付け炭火で焼く調理法は元禄年間に登場した日本独特の食文化で、ウナギのこの上ない食感とうま味を引き出している。
「串打ち3年、裂き8年、焼きは 一 生」 といわれるように、蒲焼きは和包丁、備長炭、 醤油 (しょうゆ)、味酎(みりん)、 そして匠 (たくみ) の技がうみ出す日本の職人芸術である。
>江戸は幕府のおひざ元、切腹をイメージさせる腹開きは武士たちに嫌われた、だから背開きなんだよという説をよく聞きます。
「なるほど~」という気もしますが、冷静に考えると他の魚は腹開きです、うなぎだけ背開きっていうのも変な話です。
これは製法の違いで関東では白焼きした鰻を蒸すのですが、蒸すと余分な油が抜けるのと同時に、身も大変柔らかくなり、身の厚い背側の部分に串を打たないと、身が柔らかすぎて串のところから割れてしうからだそうです。
江戸つ子の味
ウナギの蒲焼きは、鮨(すし)、 天婦蕾 (てんぷら)、蕎麦 (そば) と並んで江戸っ子に最も愛された外食のひとつであった。
はじめは浅草川・深川(隅田川河囗) 付近でとれたものを 「江戸前」として食ベ ていたが、需要に追いっかなくなると「旅うなぎ」と称する江戸の外からのウナギが供給された。
>旅ウナギとは傑作な言い方ですね、現代ではほぼ外国産の「旅ウナギ」でしょうか。
この一大供給地となったのが利根川や霞ケ浦(茨城県)であった。
ウナギは川船で盛んに江戸に運び込まれたが、同様に、銚子(千葉県)から運ばれた醤油と結びつき蒲焼きの文化が江戸に広まった。
利根川'・霞ケ浦流域には醤油屋、鰻料理屋が数多くあり、また、 庶民が普通に天然ウナギを採捕して料理する蒲焼きの文化があった。
今では利根川に巨大な河囗堰(ぜき)が造られウナギは川に上れない。
激減したウナギの再生のためには、かつての生息地にまずはウナギを遡上 (そじょう) させてあげることが大切である。
>ウナギが少なくなった原因の一つでしょうか。